もう何年も前になりますが、サンフランシスコにありました、アルツハイマーなどの認知症と共に生きる方々の入所施設に、セラピストとして勤めておりました。ここで出会ったHanakoさんは、アルツハイマーと診断された80歳になる日系二世の方でした。臨床でよく見ることですが、認知症が進行するにつれ、バイリンガルの方も、一番最初に習得した母国語(第一言語)の方に、どんどんコミュニケーションが偏って行きます。バイリンガルだったHanakoさんも、やはり、少しづつ会話は日本語中心になって行きました。Hanakoさん、どう見ても日本人の私を見かける度に、日本語で話しかけて下さいました。しかし、時間が経つにつれ、Hanakoさんの私に話す内容が「あんた、気をつけなさいよ。」とか「みんな見てるから、信用しちゃダメよ」とかいった、周りの入所者の皆さんへの不信感と私への警告のようなメッセージになりました。私の勤務していたこの施設の入所者は、ほとんどが白人の方でした。アジア系や黒人の入所者は、数えるほどしかおられませんでした。ある日、私はHanakoさんの生い立ちから、あることを学びました。Hanakoさんは、第二次世界大戦中に、日本人の強制収容所を経験していらっしゃったのです。ご存知の方も多いかと思いますが、当時、敵国である日本から移民としてやってきた日本人(日系一世)、そして、アメリカで生まれて育った日本人の血を引く人々(日系二世、三世)は、アメリカの75か所の地域に渡って強制収容されたのです。その時に許可されたのは、スーツケース1個に入る所持品だけと伺いました。そしてその数は、125,000人以上に上ります。Hanakoさんもその一人。しかも、まだ幼い少女だった頃です。Hanakoさんの話す内容と彼女の経験を鑑みると、白人アメリカ人の多いこの施設は、強制収容所や、その当時の激しい人種差別の経験と、オーバーラップしていたのかもしれません。また残念なことに、お食事がほとんどアメリカの食事中心で、アジア系の食事が出なかったので、Hanakoさんは「不味い!」と言って、どんどん食べなくなっていかれました。明らかに、楽しそうな表情が消え、身体も痩せていかれたHanakoさん。英語しか話されない彼女のご家族に説明し、いろいろ話し合った結果、Hanakoさんはアジア系の入所者の多い、お食事もアジア系がメインという施設に移ることになりました。お別れの日、Hanakoさんが何を感じておられたかは定かではありませんが、私は「気をつけて、行ってらっしゃい!」とハグして、見送りました。後に、ご家族から、Hanakoさんが新しい施設で楽しそうに暮らしておられる、と伺い、安堵したものです。
認知症のケアを考える時に、その方に大きな影響を及ばす文化的背景を考慮することが大切だという事を、Hanakoさんとの出会いが、教えてくれました。そして、これが、私の博士課程に進み研究するという原動力にもなった次第です。Hanakoさんは、私にとって、決して忘れることのない、大切な方です。
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